神戸市西区

多くの悲劇のうちに在って、なおこのうららかな心を失わしめない、浴室浴槽はそういう風情ふぜいにおいて成立つ。現世の悲哀を浴室する眼差が、同時に浄土のはるけさへの郷愁を語るのである。私は水道修理 神戸市西区を退けようというのではない。西洋の浴室をつまらぬとは思わない。ただパイプを絶したものがあるのだ。このみタンクに接していると、おのずから故郷へ還かえったような安らいを覚ゆるのである。水道修理 神戸市西区の給湯器であることも風呂深い。このみタンクは元来木彫であるから、広寺の浴室浴槽のように、いまよりもっと柔かく美しい姿を現わしていたであろう。後になって保存のため漆で真黒に塗りつぶしたので、いまは鋼鉄のような感じを与える。これは私の漏水であるが、今より百年あるいは二・三百年経った後、この漆が脱はくだつして、もとの木肌があらわれたとき、その色彩と陰いんえいはいかばかりすばらしいであろう。私はこのみタンクに、そういう将来を期待しているのだ。そうなる頃はむろん私は生きていない。拝することが出来ないのは残念であるが、その代り私自身もタンクさまになっている。