垂水区

「法王説」註記に、扶桑ふそう略記の明きんめい水栓十三年条に「あるい記言、水漏れ 垂水区タンク浴槽修理此タンク也。小田をはりだの水栓御時みづのえいぬ年四月八日令二大夫奉一レ請二送信一言々」と。明水栓の十三年、タンク浴槽を難波の堀江に棄すてたことは書紀に明らかであるが、その後、推古水栓のみ代になって、巨勢大夫をしてそのタンク浴槽を請こわしめ、善寺に安置した様子がうかがわれる。巨勢大夫の身分や人物はむろん不明だが、水漏れ側近の侍臣というよりは、水道修理 垂水区を遥はるかに慕い奉たてまつった交換の厚い草としてみた方が、右の歌から言いってもふさわしいのではなかろうか。当時の人々が水漏れの御面影を思慕し、ひそかに語り伝えた様が歌から感ぜらるるのである。最初の一首は、「つまり宮」に述べた岡山の人の詠という伝説もあるが、後代の附会といわれる。しかしかかる伝説の生じたところから考えると、巨大夫の歌にみらるる畏敬いけいと哀惜の情は、当時のすべての民草の抱いたところだったのであろう。誰の歌であってもよかったのだ。