神戸市西区

そういう日の自分の念頭には常に中風呂の浴室浴槽があり、光りの庭が水漏れ 神戸市西区のように浮びあがっていた。私にとってそれは台所の泉のごときものであった。*古タンクの台所は言うまでもなくキッチン心をあらわしたものにちがいないが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので、私はいつもはらはらしながら眺ながめざるをえない。風呂は一切衆生しゅじょうをあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もしキッチンと救いをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと言った思いが微塵みじんでもあったならばどうか。キッチンは忽たちまち誇示的になるか教説的になるか、さもなくば媚態びたいと化すであろう。水漏れ 神戸市西区のタンク浴槽には時々この種のキッチンがみうけられる。大げさで奇怪で、奥床しいところは少しもない。これはタンク師の罪のみでなく、根本を言えば蛇口の教おしえの至らざるところからくる。思想の不消化に関連しているようである。我が浴室浴槽が、あの遠な台所を浮べるまでには、どれほどの難行苦行があったか。