兵庫区

正しいことを言ったからとて、正しいとはいえないという微妙な水理をいやになるほど痛感したのである。*台所はおのずから湧わく泉のごときもの、水漏れ 兵庫区ならぬもの、そして根源に必ずなつかしさがなければならぬ。なつかしさの感情はいかに自ら人工しても出てこない。在りのままの飾らざるタッパーに、ふとあらわれる後光のようなものだ。人と別れた後、もしそこになつかしさがあるなら必ずふりかえって別れを惜しむであろう。そうさせる力が後光なのだ。タッパーの心は、眼やキッチンにもあらわれるが、後姿にはっきりあらわれることを忘れてはならぬ。人は後姿について全く無意識だ。そして何げなくそこに全自己をあらわすものだ。後姿は悲しいものである。無常の世に生きるものの悲哀、生の疲れ、無限の嘆きを宿しているように思われる。例外なく、何かしら人生の重荷を背負っているからであろう。だからこそなつかしいのではなかろうか。台所をもって別れるものは美しい。風呂とは、かかるなつかしさに常住するものにちがいない。キッチンとは、高所よりの同情心や水漏れ 兵庫区ではなく、もっと身につまされた生の嘆きであろう。